書こう書こうと思いつつ・・・

上岡敏之指揮のヴッパータール交響楽団の来日演奏会から一ヶ月半近く経ってしまいました。色々書きたいと思ったことはあったけど何だか書こうと思うとまとまらない。とっても楽しかった。とっても感動した。それと同時にいくつかの「?」も浮遊したまま(笑)・・・・でもせっかくだから「?」についてだけちょっと書いておこうと思います。
それは最後に横浜みなとみらいで聴いたブルックナーの7番。結局あれを聴かなければ「?」はあまり無かったのです。
僕はヘレヴェッヘピリオド楽器でやった演奏です)やヴァントなどの速目のテンポで流れるブルックナーも好きだし、チェリビダッケベルリンフィルミュンヘンフィルの超スローな実演にも心臓が止まりそうなくらい感動したし、マタチッチとチェコフィルのロマンティックな演奏も大好き、テンシュテットのテンポを揺さぶるダイナミックな演奏も結構好きでした。そういう意味ではそれ程ブルックナーに対して固定的な先入観はなく良い演奏は楽しめるつもりでした。ところが上岡君の演奏はどうしてもあの場では生理的に受け付けられなかった。それは純粋に音楽的に、ということもあるけどオーケストラがあまりにも苦しそうで見ていられない(笑、マジで全身真っ赤になって倒れるんじゃないか?と思うような管楽器奏者もいましたしね)、聴いていられないということが大きかったように思います。CDで聴いてみてもこれだけのスローテンポだとフレーズごとに微妙にずれる箇所があまり多くて、丁寧な演奏なだけに気持ち悪かったのです。
そんな訳で、このブルックナーはしばらく放っておくことにしたのです(笑)。
ところが今月出た某音楽雑誌にて日本ではブルックナーの権威ぶっている某音楽評論家が、上岡君のブルックナーのCDを「第一楽章0点、第二楽章20点、第三楽章0点・・・・」みたいな(きちんとは覚えていません)ことを書いて評していたので、さすがに「そりゃ、違うだろーー」と思い、改めてCDをじっくりと(こんなにじっくりと聴けるCDも珍しいもんね)聴きなおしてみました。うーむ、ようやく判ってきたような気がする。と言うか初めてこの演奏を「愛おしい」と思えるようになりました。
でもね、まだ判らないことの方が多いのです。少なくとも第二楽章のクライマックスで鳴らされる「シンバル」には未だに途方も無い違和感を感じます。あのテンポ、あのフレージングとクレッシェンドの後になぜあのシンバルが必要なのか?逆に言えばあのシンバルが必要(ブルックナーの意思)なのだとすれば、もっと違う演奏になってしかるべきだと思ってしまうのです。
何が判ったのか、と言うと要するにこの演奏は今までのどんなブルックナー演奏とも根本的に全く違うものだということ。この違いに比べればヴァントとチェリビダッケの違いはコカコーラとペプシコーラの違いみたいなものだ(笑、カラヤンを「コカコーラ」と評したチェリさんは勿論「ペプシ」です!)。
もしかしたら上岡敏之は、僕が想像していた以上にとんでもない指揮者なのかもしれない。少なくともモーツァルトR・シュトラウスベートーヴェンチャイコフスキーに置いては沢山のオドロキと感動があったけどそれらは「想定内」だったのです。しかし上岡君があのようなブルックナーを振るということは全く想像できなかったし、実際に聴いても感動以前に「?」が頭の中をさまようだけでした。そもそもブルックナーという作曲家はドイツ音楽史の中でも飛びぬけてクエスチョンマークが多い人です。僕はブルックナー大好き人間ですが、ブルックナーを生涯けなし続けたハンスリックという人の評論を読むと、実はその主張することにはとっても納得できる部分があります。もしかするとハンスリックはある意味ブルックナーの本質を一番理解していた人かもしれないなんて思ってしまうほどです。
上記の某音楽評論家が『ブルックナーの本質』と言うインテンポを基調とした無骨な演奏スタイルというのは、ある意味ブルックナーの本質を理解できない演奏家たちの言い訳だったのかもしれません。いやこれは半分以上冗談、演奏家は皆マジメに本質を追及してああいうスタイルを築き上げたことは間違いないのです。でも評論家がそのスタイルのみに追従して、自分が聞きなれないものに「0点」をつけるとはナニゴトだ?(判らなくても感動できなくてもいいじゃないですか、と言いたくなるけど多分「ぷらいど」が許さないんでしょうね。)
少なくとも上岡君の演奏は誰かのマネゴトでありえない。圧倒的なオリジナリティと申しましょうか、そしてこれだけの超スローテンポにも関わらず実はテンポのことは殆ど感じさせないくらい見事な音楽性、そして何よりも大事なことは、これら全てが上岡君なりにブルックナーの本質を追及する中で生まれてきたであろうことです。
でもね、まだ感動したわけじゃないんです(笑)。ここが難しいところだなあ。